2018/06/06

比叡山清掃登山で危うく自分が大型ゴミに

京都には、年に一度京都府下一斉清掃登山があります。

と言っても公式行事などではなく、京都府下の山岳連盟が、自主的に行っているもので、今年は6月3日でした。

「第50回 京都府下一斉清掃登山大会」   京都府山岳連盟HPより

18コースもある中で私たちの受け持ちコースは
 ケーブル比叡駅~瓜生山~北白川 でした。

ケーブルで比叡山口まで上がり、ゴミを拾いながら、北白川バプテスト病院前まで下りてくるというものです。
下りがメインのコースです。
「歩けるかなあ~?、でも、これを逃したら、また今年も参加できる例会はないだろうなあ?」
と思い悩みました。
当日になって、ドタキャンしても、私なら許されるだろうなどと不届きな思いも抱きつつ参加を申し込みました。
それに、この二日の宴会日で、あるメンバー私に言ったのです。
「歩けなくなったら、僕がおんぶしますよ。ぜひ行きましょう!」

酔っ払った弾みにエライことを口走ってしまいましたねTくん。
彼は、この一日中、背中に冷や汗をかきながら、私の後ろを歩くことになったのでした。

朝目を覚ますとベットから玄関まで新聞を取りにヨロヨロと歩いて一日が始まる私です。
《 痛みに負けたらお仕舞いだ 》と思って、いつも歩ております。

と言うわけで、この日も、山用の杖(ストック)にCWX(足の筋肉補強タイツ)で身を固め、よろよろと出かけました。

出町柳発の叡電の車両で、見慣れた顔に出会うと、さっそく小学校の遠足気分になります。

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ケーブルで比叡山を上がって、ここで、軍手とゴミ袋を渡されます。
みな楽々とゴミを集めています。

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しかしながら、私は、両手に杖を持つと、軍手すら邪魔になり、脚にまつわりつく空っぽのゴミ袋もうっとうしくなりました。
歩くだけで精一杯です。
ここでT君が 「よかったら僕がお持ちしましょうか?」
とゴミ袋を引き取ってくれたのでした。
私は何をしにここに居るのか?
でも、ゴミを拾えなくても、ゴミにならなければ良いか!
運命に身を任そう!と言うわけで、杖にすがって歩くことに専念させてもらいました。
山道は、少し登りがあり次にだらだらと下りでこぼこ道です。
まあ、これが、ごく普通の北山の下りなのですが・・・

私の前を歩くEくんは、この日の映像担当らしく、大きな三脚の上に、これまたどでかい一眼レフカメラを装着し、それを三脚ごと頭上に抱えて、ゆったりと歩いています。
私は一生懸命早足で歩いているつもりでした。
それなのに、ゆっくり歩いているEくんの背中がドンドン離れていき、やがて全く見えなくなってしまうのはなぜだ!

途中には、エゴの花やシライトソウを見かけました。
スマホに画像をと思っても、写真をとっていたら、ますます遅れるので、途中の画像はほぼありません。

シライトソウだけ撮せました。
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ランチタイムの瓜生山にたどり着いたら、前に歩いていたメンバーはランチの終わりかけでした。

ゴミには、こんな缶もありました。
現在は、もう販売してないのかな?
それより、足下にある缶はなんだ! 
もう呑んでるじゃないか!?

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北白川城本丸跡
よくもまあ、こんな所に城を作ったものだと感心しました。
もうちょっと下ると、茶屋四郎次郎の別荘の跡地がありました。
叡電「茶山」の名前は、「茶屋四郎次郎の山」→「茶屋の山」→「茶山」から来たそうです。
「あとどのくらいなの?」とのっぽのY氏尋ねると。
今はGPSというのかスマホで位置と距離を確認できるのですね。
それを見て「 もうすぐや」と答えましたが、私は、彼を信用しないのでした。
なぜなら、私の脚と彼のとでは、三倍ほど長さが違うから、油断は出来ないのでした。

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それでも、13:30に麓の神社に到着です。

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バプテスト病院前にたどり着いたのが13:50でした。

ここでゴミの仕分けをします。
ゴミを拾うどころか、ゴミとして運ばれるのではないのかと危惧していたのですが、なんとか自力で歩いてこれました。

ここで、T氏が、「お返しします」と、私のゴミ袋を返してくれたのでした。
この袋の中のゴミとならずに良かった!!

T氏も、私を担ぐことなく締めくくれて、さぞやホッとしたことでしょう。

ゴミを整理している間、脚を投げ出して座っておりました。
そして立ち上がろうとすると、左太ももの後ろが「 痙る~!」
揉んでほぐして、ホッとしたら右太ももの前が 「痙る~!」

でもこれは、太もも君が、膝をかばって頑張ってくれた証拠だと思うのであります。
太ももだけでなく、腰の両付け根も痛いぞ~・・・

とにかく早い終了時間だったので、大急ぎで帰りました。

帰宅したら16時でした。
「まだ間に合う。泳ぎに行こう!」
スポジムに走り、17時の終了時間ぎりぎりまで泳ぎました。
40分でバタ足とクロールで1キロ泳ぎ、少し痛みが緩和したようです。

ようし《今日はよく頑張りました》賞を自分にあげよう!

アルコール9%、糖質ほとんどなしのチューハイで、一人乾杯。

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トマト、塩クラゲとキュウリの酢味噌和え、ニンジン小松菜揚げの煮浸し、コンニャクの鰹節和え、鶏もも肉の燻製と水抜きカスピ海ヨーグルト
素焼きアーモンド、低糖質チューハイ、豚肉と野菜、トマトのチーズ鍋、

低糖質で頑張ってるんですけどね~
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2018/06/01

麦秋とは初夏だったのか!

なぜかあっと言う間に、一週間が、一月が、過ぎ去ってしまいます。
やろうと思ってたことが、ほとんど出来ていない。
あれもこれも歳のせいだと言うと、「現在形で動かんかい!」
とLucie Aubrac (リュシー・オブラック)に怒鳴られそうですね。

リュシー・オブラックって誰だろうと思った人は、前回の記事を読んでください。

先週の授業の時に、「麦秋」 麦の秋という話をしたのでした。

l'automne des blés(麦の秋) 
などと言う言葉は仏語に存在しないと思いますが。

麦は秋に蒔いて、初夏に刈り入れるもの。
ところが、日本語の「秋」と言う言葉には
本来の夏と冬の間の季節という意味だけでなく
実りの秋から転じて、季節に関わらず収穫時期を秋と呼ぶことがある。

麦秋(ばくしゅう)とは麦の穂が色づく初夏を指す


いやあ~、恥ずかしながら、私は今までそんな意味だと気付いてさえいませんでした。

では、なぜ気がついたかというと・・・・

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我が家の近くを散歩していたのです。
あちこちに水をたたえた田んぼが見える。
「あ~あ、田植えの季節だな~・・・お百姓さん有り難う。」
などと感慨にふけってましたら、遠くの方に黄色に見える部分があるのです。
私は思いました 《耕作放棄地なのかしら?畑が枯れてしまってるのでは?》

日本の五月は、まずこの風景です。

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近づいてみれば、水気のない乾いた畑です。
「これって、もしかしたら麦かも?」
よくよく考えてみたら、私は、稲刈りは知っていましたが、
麦刈りは外国の名画「ミレーの落ち穂拾い」でしか見たことが無かったのです。
「日本の麦刈りって秋ではないのか?麦秋って言うやん?」

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それで納得がいかず、手に取ってみました。
抜き取ってはいません、持ってみただけですよ。

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粒が大きいような気がします。
小麦でなくて大麦なのでしょうか?

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その先まで歩いて、畑仕事をしていたご夫婦にお尋ねしました。
「最近は、どこも麦植えとらんですよ。守山あたりで作とるかも・・・」
ということで、一般的に作付けをしている家は少ないようです。

農業の高齢化で、耕されないまま放棄されそうな田んぼもあちこち見かけます。
でも、若い世代が、新しい取り組みとして、大麦生産に切り替えとか、そんな発想があるのかも?
最近、地ビール紹介などというTVを見たような気がしないでも・・・

何はともあれ、第一次産業が引き継がれていって欲しいなあ~
と、全く消費者に徹している私ですが、心の底から感じたのでした。

小津安二郎監督の作品で、 「麦秋」という映画がありました。

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名作と言われる、この映画のタイトルの意味も知らなかったのか!
このままでいけば、死ぬまで知らないままでいたことでしょう。
ああ、気がついて良かったなあ~・・・としみじみ思った私でした。

「小津安二郎と言えば、東京物語も良かったね?」
先生は、他にもいくつかタイトルをおっしゃってましたが、私たちはあまり知りませんでした。
先生の方が古い映画をよく知っているのでした。
これも、ちょっと恥ずかしかったですね。
日本の文化を見直そう!と思ったのでした。

2018/05/21

労学 対馬物語4日目 


阿比留文字、そして、自由時間に、我が家の墓参り

3日目の話の続きを、ちょっと付け足します。
もちろんガイドさんからの受け売りですが・・・
蒙古襲来で戦い討ち死にした対馬のトップは宗助国でした。
対馬の支配を任されていたのですが、それ以前、対馬は阿比留(あびる)
という一族が支配していたそうです。

阿比留って、珍しい名字ですが、対馬では阿比留という名字は多いのです。
私たちのバスの運転手さんも阿比留さんでした。
阿比留一族は、恐らく対馬古来の豪族ではなかったかと、私は思うのですが。

なぜならば、対馬には、日本で文字が出来たよりももっと前に、阿比留文字 なるものがあったそうなのです。
韓国からのツアーを案内してきてた韓国人のガイドさんが
「阿比留文字はハングルの基となったと話されてましたよ。」とのこと・・・
そのくらい古い時代の文字のようです。
帰宅して、ネット検索してみましたが、あまり資料は見つかりませんでした。
ああ、残念!

阿比留文字
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(ネットで見つけた画像です)

さて、最終日12日は、各自自由行動。
11時に空港への送迎バスが迎えに来る予定になっています。
私は、この日は、別行動をすることにして、朝食(6:30から)の後、ご先祖様のお墓参りをしてきました。
墓参りと言うより、内容は墓掃除でした。

私自身は、無宗教で「墓も寺もいらないい」という考えで、ずっと来ていたのです。
ご先祖の墓も 「しょせん形だけのものでしかない。」と斜に構えて、親任せ、兄姉にしておりました。
だから、一人で行ったら、場所がどこだったかよく分からない。
父が亡くなった後、母に連れられて数度訪れ、長兄が亡くなってからも2度、義姉の子供達と訪れいているのです。
にもかかわらず、方向音痴の私は、一人で行けなかったのです。

対馬に到着した日、「まず場所確認」と自由時間に、だいたいの見当で出かけたのですが、見事に東西を取り違えておりました。
同行してくれた友人が、交番で調べてもらって「あっち行って、右曲がって・・」
と指示してくれたので、無事たどり着くことが出来たのでした。
次行く時は、東横インと十八銀行のある通りの突き当たりにあるダスキンの店の横の道を入った良いのだ!

ダスキンがなくなっていたらどうしよう?どうか廃業しないでくださいね。

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緩く見えますが、年老いては上れなくなる急な坂道です。

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由緒正しき我が菩提寺の場所を忘れてはいけません。

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お寺の裏山がお墓になっています。まだ登りがかなり続くのです。
目印1は 通路一番始めの水道を左に入ること。

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まだ、よく分かってない、少し進んでT家のお墓を右に曲がって入ること。

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立派な両隣の墓に埋もれてしまいそうな慎ましいお墓、これが私のご先祖様の墓です。
なぜ、ここまで詳しく書くかというと、何年か先に、また御墓参りに行くとき、これを読み返せば、間違いなく一人でも行けるだろうと思うからなのです。

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今から約60年前に、父が、自分の先祖の墓と母の先祖の墓を寄せて合同し祭った墓だそうです。

父にしてみれば、第2次世界大戦の終わりを平壌で迎え、軍人では無かったけれど、兵器所の爆破犯の一味と見なされ、ロシア軍に逮捕され拘留。

母は五人の子供を抱えて、父の無事を祈り待ちました。
やっと解放された父と共に、一年をかけて、平壌から釜山まで歩いてたどり着き、引き揚げ船で博多港にたどり着きました。
途中の山の中で、また船から海の中に子供を捨てた親もいたのですが、うちの両親は、根性で全部連れて帰ったのです。

対馬に帰れたのは、その後でした。
父の母、私の祖母は、何一つ持たずに戻ってきた親子を、抱きしめて涙を流して喜んだそうです。

これだけだと美談ですが、大きくなって反抗期になった兄を見て、母は言っておりました。
「あの時、捨ててくれば良かった・・」と、
まあ、人間色々あって人生です。

それから約10年後に、父は、この墓を建てたのでした。
生きて帰れて、先祖を自分の手で合同墓に祭れて、さぞや安堵感があったことでしょう。
今年70歳になる私が、10歳から12歳ぐらいの頃だと思います。

今になってこそ理解できる親の思いですね。

父の朝鮮で過ごした思いが、この墓石の形に込められているのであろうか?

「なんで、こんな形にしたの?」
父が健在の時に、だれかお兄ちゃん達が聞いといてくれたら良かったのに・・・
と兄ちゃんのせいにするのが、末っ子の特徴です。

このように、他の家の墓石とは、全く異なる形のお墓なのであります。

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無宗教、かつわがままな私です。
「誰かが世話するから、私は関係ないもん」と思い込んでおりました。
その7人兄弟の末っ子が、一人で墓掃除をする様になったのであります。

お墓の中では、お父ちゃんとお母ちゃんが笑っているのでは無いかという気がしました。
兄弟の中で、私だけが、未だに、お父ちゃんお母ちゃんという言い方を残しております。
兄や姉は「お父さんお母さん」と呼んでおりました。
まさしく私は、末っ子の甘えん坊だったようです。

2時間ほど費やして、草を抜き、墓石をこすり・・・
でも、まだまだですが、時間が無くなるので、お別れしてきました。

厳原の海をながめる静かな墓地で、海風は動き回って流れる私の汗を冷やしてくれます。
小鳥たちが絶えず鳴き交わし、心が静まる場所なのです。

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目の前の樹木は、墓が作られた頃は、植樹されたばかりで、視界を遮る物はなかったと思われます。

父が愛し、、母が愛し、兄が愛した、この場所を、もう少し、そのままにしておいてやりたいなあ。
こんな私でも、やっと子供らしき、先祖に対する供養の気持ちがわいてきたようです。

人間、歳はとってみるものですねえ~・・・

まさか、こんな殊勝な気持ちがわいてくるとは思っていませんでした。

自分のためのお土産と思って、土産物屋で選んだマグカップ。

ブルーの海の色にかわいいツシマヤマネコ

のはずだったのが、開けたら、違うデザインのものが出てきました。

ヤマネコくんの瞳が 「すいません」っとわびているように感じました。

まあ、エエねんけどね・・・

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2018/05/20

労学 対馬物語3日目 

3日目・下対馬巡り

3日目の11日は、対馬の南島になる下対馬を回ります。

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最南端の岬の地名は 豆酘崎(つつざき)と読みます。
上対馬の港、比田勝(ひたかつ)も、初めての人なら「はて、なんと読むのだろう?」と思うでしょうが、この豆酘は、まず読めないと思います。
対馬の地名には、独特の読み方が多いようです。
厳原(いずはら)、鶏知(けち)、五根緒(ごねお)、唐舟志(とうじゅうし)、鰐浦(わにうら)、唐洲(からす)、濃部(のぶ)、
阿連(あれ)、天道茂(てんどうしげ) etc

この島で元々呼ばれていた地名を、あとから内地(日本)の文字に置き換えたのでしょうね。
私が幼い頃、大人達は、対馬に対して、日本のことを「内地」と呼んでいたような記憶があります。
沖縄では、「本土」と言うに似た感じではないのだろうかと思うのです。

沖縄のような米軍基地はありませんが、昨日見学した、豊砲台跡(明治時代、日本軍が砲台を築き、広大な地下要塞となっていた)といい、海上保安庁、海上自衛隊、いろんな施設があって、この島は、日本の対外軍事拠点として位置づけされているのだなあと、私は感じました。

何はともあれ、この日も快晴でした。

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修復中の清水城を通り越し、空港へ向かう1870mの厳原トンネルを抜けて、鶏知(けち)から下対馬の西側に向かいます。
対馬西海岸の小茂田浜海岸公園。

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今では綺麗に整備されていますが、蒙古軍が、900艘の船と3万の軍勢が、ここにおしよせたのでした。
時代は文永11年10月5日(西暦1274年11月4日)でした。

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その頃、対馬の首都厳原は、府中と呼ばれていたそうです。
太宰府の役人で対馬守護代の宗助国は、その軍勢に対し、80騎で立ち向かったそうです。
そりゃまあ、負けて当然ですよね。

(クリックすると拡大します)
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朝の4時から戦いが始まり、9時には日本軍全滅で終了した。
総大将、宗助国は、その時68歳でした。
この場所の近くに、「お胴塚」「お首塚」とバラバラにあると言うことは、どんな討ち死にだったかと想像されます。
《 老将よく戦えり 》 偉いぞ、おっちゃん! と褒めてあげたくなります。
今の団塊世代にも、この根性で世の中に立ち向かってほしいものです。

私は、対馬藩主の姓が  というのはなぜなのだろと不思議に思っていたのです。
この宗助国さんの武勲を認められて、宗家は永く維持されたのかも知れません。

ガイドさんのお話によると、この元寇の戦いには、島の住民も巻き込まれ、殺されたり、奴隷として捕らわれたりしました。
多くの住民が、小さな小舟を操って島の外に逃げ出したそうです。
海流に乗って、一番遠くに運ばれた人がたどり着いたのが津軽、今の青森でした。

そこで、ふるさとに帰ることを飽きらめて定住した人々が、明治時代の、国民総姓制度で、名字を決めなさいと言うときに、ご先祖の地の名前を選ぼうと言うことなったそうです。
青森には、字は違いますが津島という姓がけっこうあるとのことです。

太宰 治の本名は津島 修治。 
実は対馬と太宰治は、奇しき縁があったのでした。

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次に行ったのが
椎根の石屋根倉庫です。
対馬の岩の質が、こんな板のような岩を生み出したようです。
季節風の強い対馬では、倉庫の屋根として大昔から使われていたそうです。
しかし、いまでは、保存が年々大変になってきています。
屋根は全部一枚ずつの石で出来ています。

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佐須院観音堂で、いにしえに海流に乗って対馬にたどり着いた木造の仏様を拝見しました。
平安期の作品と思われるとのことですが、どんな事情で来たのか、タイムトラベルをしてみたいと思いました。

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厳原に戻り、対馬藩主「宗家」歴代の墓所、万松院に向かいます。

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宗という名字は、中国からのいわれがあるのかなとも思われますが
wikipediaによれば、宗氏は秦氏の末裔惟宗氏の支族だとのことです。 宗氏

蒙古襲来で討ち死にした2代目 宗助国、20代目 宗義智 が有名です。
この宗義智は、秀吉からは朝鮮出兵の先駆けを命ぜられ、家康からは悪化した朝鮮との国交回復を命ぜられ、さんざん苦労したそうです。
奥さんは朝鮮出兵で共に行動した小西行長の娘でキリスト教徒のマリア。
関ヶ原の戦いで、西軍についた小西行長と東軍についた宗義智は袂を分かちました。
そして奥さんのマリアを離縁して島から逃がす。
なんと悲恋のドラマではありませんか!
対馬の市民劇団が、それをテーマにして 「島は島なりに治めよ」という舞台公演を各地でしているそうです。
ガイドさんが、まさにドラマ仕立てで語ってくれました。
ウィキペディアでは20代目となっていますが、お墓では19代としてありましたよ。

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杉の巨木、歴代のお墓、戦国時代を思わせます。

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この後、ランチで、対馬の郷土料理「ろくべえ」をいただきました。
ろくべえとは、サツマイモを水に漬けて発酵させて、澱粉にし、保存し、食べる際には、乾燥して団子状になったものをぬるま湯で戻して食られていた、いわば非常食だったそうです。
これで、飢饉の時にも対馬では餓死者を出すことが無かったとのことです。
今は、美味しい出汁で、プルプルした食感の郷土料理として味合うことが出来ます。

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午後は、対馬の最南端、 豆酘崎(つつざき)です。
快晴で、地平線が全部視界に入ってきます。

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灯台の手前にある、二つの塔は何かというと、この辺りは荒磯なので、船は、この間だけを通らなければならないのです。

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さあ本日は、これにておしまいです。
帰りのバスの中で、 豆酘は美人が多い、むかしこの集落に住んでいた娘が、その美しさ故に召し出されました。
彼女は、親元から引き離される悲しさに、途中で自害してしまったとのことです。
そして、死の間際に 「こんな目に遭うのも、私が美しすぎたせいだ、どうか、これからこの村に美人が生まれませんように」と念じて死んでいったそうです。
それでも、未だに 豆酘には、美人が多いとか・・・・

こうして三日目も楽しく過ごしたのでありました。

2018/05/17

労学 対馬物語2日目

2日目:上対馬巡り

5月10日
一点の曇りも無い快晴となりました。

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この日は、対馬の北側の大きな島、上対馬を巡ります。
チャーターしたマイクロバスに乗って、宿泊地、厳原から出発です。

バスに乗り込むとすぐに、ガイドさんは手書きのスケッチブックを取り出しました。
手作りの資料を用意してくださる熱心なガイドさんで、この二日の旅は、すごく勉強になりました。

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上対馬と下対馬の間には、瀬戸と呼ばれる2本の運河があります。
1672年に開削された古い運河は「大船越」と呼ばれています。
今は漁港として使われ、舟の通行は、明治時代1900年に作られた万関の瀬戸が使われているとのことです。
船越という地名は、海を渡ってきた舟を、人力で持ち上げ山を越して渡した事からつけられたそうです。

万関は、日露戦争の前に、軍艦を通行させる所要時間を短縮するための作られた物です。

現在の万関橋
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橋からながめる運河
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舟が波を蹴立てて通り過ぎてゆきます。
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次は、和多都美神社です。
和多都美(ワタツミ) という呼び方は、海神(ワタツミ)を祭ることからつけられたのであろう思いました。
神社というのは、「場」なんだな~と感じました。
物はないけれど、古代からの霊気がそこにある感じがします。
ご神体です。
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次に、烏帽子岳展望台から、対馬の島々をながめました。
ガイドさんの話では、対馬は108の島があるそうです。
人が住んでいるのは4島で、あとは無人島とのことです。

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お昼は「あなご亭」で、黄金の蒸しあなごをいただきました。
対馬では、昔はあなごは食べずに捨てる魚だったそうです。
しかし、近年、気候の変動と乱獲で漁獲量が減少している。
そこで、見向きもされなかったあなごを大事に育成して、「対馬の黄金のあなご」にしたのが、この店のオーナーだそうです。
本当に、ふっくらとして美味なあなごでした。

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対馬野生生物保護センターで保護されているツシマヤマネコ君に会いに行きました。
お昼寝の時間だったようです。

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対馬では、年ごとに、ヤマネコの交通事故が増え心配されています。
ツシマヤマネコ交通事故ゼロ日数の標識をどこかで見かけました。
ツシマヤマネコの特徴は
額の縞模様。太いしっぽ、耳が丸い、身体の模様、胴長短足 などだそうです。
胴長短足・・・なんだか親近感を覚えます。

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対馬最北端までたどり着きました。
快晴のこの日、視力が高い人には、釜山の建物が見えたのかも知れません。
が、私は、あっちかなあ~と言いつつ、海の彼方をながめたのでした。

韓国展望台
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朝鮮国訳官使殉難之碑
元禄16年、1703年、旧暦2月5日朝、108名が乗った、釜山から対馬に向けた舟が、急変した天候のため、鰐浦を目前に遭難、全員が死亡するという悲惨な海難事故があった事を記す記念碑です。
秀吉の朝鮮出兵で悪化していた国交も、元禄時代には、回復していました。
訳官使とは、対馬藩主の慶弔や外交の実務交渉のため、朝鮮から対馬に派遣されていた使節のことだそうです。
この碑には、亡くなられた人たちのの名前が刻まれています。
水先案内として乗船していた、対馬藩士の名前もありました。

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 昔から、国境にあり、朝鮮への水先案内人として、有無を言うことも出来ず利用されてきた対馬の苦悩を、ガイドさんは、丁寧に話してくれました。

帰路は東の海辺沿いに下り、日本海を見下ろす「日露友好の丘」に連れて行ってもらいました。
この場所に、日露戦争で亡くなった軍人たちの名前を刻んだパネルがあります。
ロシア名が大半を占めていますが、日本人の名前も一緒に祭られています。

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1905年に戦われた日本とロシアの日本海海戦は対馬沖で戦われました。
私は、ロシアだから、北から軍船が来たのかと思いこんでおりました。
そうではなくて、バルチック艦隊はヨーロッパを経由して、西の方から対馬と壱岐の間を通って来たのだそうです。
長い航海で疲弊しきっていた上、思わぬ奇襲で、世界に誇るバルチック艦隊は敗れてしまったのです。

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(ネットから画像をお借りしました)

現在の爆撃なら、全員即死亡というような結果になってしまったでしょう。
この海戦では、軍艦は砲弾を受け沈没しても兵士達は救命ボートをこいで陸を目指したのです。
1900年当時、対馬の住民には、日露開戦さえ知らされていません。
丘の上で、鎌を持って農作業をしていた女達は、命からがらやってくる4隻の船に、始めはビックリ。
しかも下りてきたのは、初めて見るロシア人です。
手振り身振りで、話しかけ、「水が飲みたい」という事が分かったので、近くの井戸に案内したそうです。
その後、村の人たちで相談し、各家の大きさによって、人数を分けて、泊めて、にぎりめしやふかし芋など、自分たちで考えつく食事を提供したのでした。
地獄で仏という言葉がありますが、ロシア兵達は、まさにそう感じたのでは無いかと思います。
数日後、日本軍が、敗残兵の撤収にきて、彼らは日本の軍船で連れて行かれるとき、村人は、皆手を振って見送った。
そんな逸話をガイドさんから、聞かせて頂きました。

対馬の人は、昔から、困った人には手をさしのべる、良い性格なのですね。
だって、私のふるさとなんですもの・・・

記念碑の説明文です。
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帰りには、釜山から、また博多からの船がくる北の港 比田勝港の横を通りました。
ちょうど釜山へ向けての出航時間だったようです。
外国からの、特に韓国からのツーリストは激増して、施設を増設しても入館手続きに間に合わないとのお話でした。
30年前から、徐々に韓国からのツーリストが増えてきて、ホテルや土産物店を増やそうかという話が出たこともあった。
しかし、一時的なブームで、また下火になったら無駄なことになるし・・・
悩んでいるうちに増える一方で今を迎えているそうです。
4,5年前には無かった免税店やホテルが、空港近くだけでなく、厳原の街にも出現しました。
今や通りを歩く観光客の2/3は外国のお客さんです。
ガイドさんの話では、始めの頃は、文化の違い、習慣の違いで、様々な軋轢もありましたが、対馬も勉強しました。
そして来る方々も、文化の違いを理解してくれるようになりました。
商売のために媚びるのではなく、対等な目線で交流することを、対馬は目指しています。
ガイドさんの、ふるさとに対する愛と情熱に、私たちは打たれたのでした。

国境の島は、国境の国際交流の場でもあるのだと、しみじみ思ったのでした。
2018/05/17

労学 対馬物語1日目

1日目 京都から対馬へ

9日か12日まで留守にしていました。行き先は対馬です。
旅行会社のツアーではなく、同窓会とでも言ったら良いのかな?
若き日々を、京都勤労者学園、昔は京都労働学校、略して労学と呼んでいました。
そこで、かって学んだメンバーで構成された総勢16名で旅行に出かけたのでした。 
学んだ時期も、19050年代から1980年代までと幅広いのです。
そういう訳で、半数が後期高齢者、最年長は、もうすぐ91歳の誕生日を迎えるS氏。
残りも、ほぼ高齢者で、該当しない人は、S氏のお嬢さん40代と後60代が2,3人だけでした。
しかし、皆さん元気溌剌、やる気一杯で、圧倒された4日間でした。
そう言ってる、私自身が高齢者でございます。
しかし、若い方から数えたた、5,6番目なので、相対的には若者パートに入れて頂いたのであります。


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(分かりやすい画像があったのでネットから拝借しました)

1日目

午前10:56の新幹線のぞみで博多到着。
午後3時20分の飛行機に乗ったかと思うと、3時55分の予定を少しオーバーして、対馬空港に降り立ちます。

対馬の首都、厳原(イズハラ)のホテルに到着して、まずは一服。
若者だったら、さっそく街の観光にと飛び出すところですが、我々は、ホテルと提携している料理屋さん「千両」にむかいました。

対馬名物の、生酒 白嶽 (シラタケ)は、すっきりした辛口の日本酒です。
金色の文字が私のスマホではちゃんと撮せていませんでした。

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しっかり食べて、明日からの鋭気を養います。
なんと言っても、海の幸が美味しいのです。

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対馬のB級グルメ 「トンちゃん」
私の胃袋では、ここまで食べることは出来ませんでした。

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ホテルに帰っても元気に二次会をしていたらしいお兄様達はほったらかしにして、私は、早々にベットに入りました。

続く・・・
2018/05/08

ゴールデンウイーク・その2

どこも人が一杯で、やっと椅子を見つけたけれど、座るには、ちょっとでかすぎて無理でした。

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顛末は下記の記事で読んでください。

座る椅子もなかったゴールデンウイーク
2018/05/07

GWは半径2キロで過ごしました

皆様、今年のゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしたか?

私は、半径2キロ圏内を、一人で徘徊しておりました。
我が家を出て国道まで歩くと、東西南北のどちらを向いても自動車の行列でした。
これでは、電車に乗っても満員であろう。
京都まで出かけても、人の波に呑まれてしまいそう。
そう思うこと自体が、歳をとったと言うことなのでありましょうね。
もうそこで、遠出をするのは断念しました。
ほぼ毎日通うスポジムも、GW休みです。

そこで、新しいスマホのカメラ機能を試しつつ、4月29日は、堅田浜通り商店街に繋がる道を往復してきました。

古い建物の保存に力を入れてあって、気持ちよく歩ける町並みなのです。
白壁の家。
右端が茶色く染まっているのは、私の指の影が入ったからです。

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蔦の絡まる古民家です。
これだけ絡まってると窓が開かないのではないのかな?

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滋賀県は狸の名産地なので?

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家並みが切れた場所から、琵琶湖対岸にある佐川体育館が見えます。
アスリート専用の体育館で、以前は先着順で一般人も有料で使わせてもらえましたが、今はどうなんでしょうね?
バブル時代だから作ることの出来た建物ではと思いますが・・・

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わ~、これが目に入ってしまった。
堅田の有名和菓子屋、金時堂の「イチゴ大福」の幟だ!

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クラクラッとなって、思わず買ってしまいそうになりましたが、幸か不幸か、この日は定休日でした。

門が開いていたので、入らせてもらった妙盛寺です。
手書きの額がかわいいですね。

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古いお墓と、お地蔵様が、ひっそりと佇んでおわしました。
京都の寺社を巡らなくても、我が町にも、古寺名刹がいくつもあるのですぞ!

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図書館で、こんな楽しい写真集を見せてもらいました。
写真集は、借りて帰るには重たいので、その場で見ることにしました。
世界中の街角で、本を読んでいる人の姿を集めた写真集でした。
人の姿もあれば、銅像もある。
本を読んでいる銅像は、日本の二宮金次郎だけではなかったのだ。
新たな発見でした。

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というように、iPhone seは、 結構ちゃんと機能してくれております。

スマホが、何とか使えるようになったら、パソコンがフリーズし出しました。

どうにか出来るかな?
でも機械の故障の方が、人の心の故障よりましだよねと思うのです。

というのが、4月から、私は、また少しパニック障害の気配が出てきています。
昼間は眠いのに、夜中0時過ぎにベットに入って横になるよ、息苦しくなるのです。

原因は、彼の瞳のせいなのです。
あの眼差し・・・どうしようもなく、私の心はやられてしまいました。

誰の瞳って、国会証人喚問の、佐川前国税庁長官の瞳です。

あの人の瞳の中にあるのは虚無でした。
私には、魂を悪魔それとも悪霊に売り渡したような目に見えました。

彼は、自分は上手く、国会質問をごまかしたと、ほくそ笑んだのかも知れません。
その姿は、、見るに堪えられず、私の方が、テレビから目をそらせたくなったのです。
なんとおぞましいと・・・

心安静にあるためには、TVを窓から方出した方が良いのかも知れませんね。
いや、それも、外を歩いている人に当たったら危険です。

スポーツジムの休みが終わったら、とにかく泳ぎを再開して、身体を動かそうと思っています。


2018/04/17

即宗院 春の法要祭に行ってきました

4月14日は、私が入る予定の・・・正しくは、私が骨となったとき入る予定の墓所の合同供養祭に行ってきました。

前回行ったのは、2016年の10月だった様です。

団塊世代の最後の争奪戦・・・墓場ラッシュ

その時、100人を超えた会員数だと聞いたように思うのですが、今年は約230名とのことです。
なかなか商売繁盛のようで、これからも、この形の終末産業は発展することと思います。

私としては、死後の始末ばかりは、自分で出来ませんので、誰かにして頂くしか無い。
火葬の後は、引き取りを断って、火葬場の灰にとして処理してもらったら、それで良いのですが、担当になった人は、それでは、ちょっと困惑なさると思い、この樹木葬を申し込んだのです。

ここはとても気持ちの良い、心安らぐ場所でもあるので、宗教心は無くとも春と秋に訪ねるには最高です。
ですが、いつも、供養祭は土曜日に当たっているので、授業をサボらなくてはいけません。
と言うわけで、2年に一度ぐらいの頻度で参加させて頂いているのでした。

東福寺の北の入り口から入って、通天橋からのながめです。

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方向音痴の私は、場所が分からなくなってウロウロと彷徨ってしまいました。
東福寺本堂の東側から、また小さい橋を渡るのでした。覚えておこう・

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橋を渡ると、突き当たりの横のお寺です。
非公開なので、観光での訪問は受け付けておりません。

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名前の入った石板が4基に増えていました。
私の名前は。前から2番目の柱に刻まれておりますぞ。

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このクマザサも区画割りしてあって、部屋番号ならぬ、場所番号札をもらっているのですが、まあ意味はありません。
それより墓所の上が小山になっており、植わっている大木が地震でもあると倒れてきそうで気になりました。

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この日の法話は、現と前のご住職、お二人のお話でした。
現住職様は、まだ若くて、初々しく、ちょっと緊張してお話をされているようにお見受けしました。
前住職様は、話の達人でありまして、下手な噺家よりも、うんと聞かせてくださいます。
この日は、現在NHKの大河ドラマ「西郷どん」も話しに取り入れ、人生何が幸せかについて話してくださいました。
このお寺は、島津家ゆかりの寺でもあります。
明治維新の10年前の、今から160年前に、この寺の離れにあった庵で、西郷さんが幕府転覆の密談をしたそうです。
西郷さんは、苦労人で人の痛みの分かる人だった。
彼の座右の銘 「 敬天愛人」 天を敬い人を愛する。
愛するとは、いとおしむ心のことです。
敬天とは、自然に畏敬の念を抱くという意味でないかと、ご住職のお話から考えさせられました。

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即宗院の壁に掲げられている、この額についてお話を伺い、次に、一服の軸を見せて頂きました。
カメラを向けるのは恐れ多いので、どんなお軸かというと、ネットから引用させて頂くのですが、こんなお軸です。
最後の将軍、徳川慶喜の書 「悠然待果報」(悠然として果報を待つ)
めっちゃ上手な字です。
政治のトップに立つ人は、字も上手で無いといけなかったのですね。
あ~、私はエリートにはなりたくない。

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慶喜は、自分が高官として、明治政府から招かれるであろうと思っていた。
財産もあって、不自由は無かったし、70数歳まで長生きしたが、満足感は無かったであろう。
西郷さんは、逆賊として、最後は切腹して死んでいったが、最後に、笑っって死んでいった。
彼に後悔は無かっただろう。
人の生き方として、慶喜の細く長く、西郷の太く短く・・・あなたなら、どちらを良しとしますか?
とのご住職の問いに、細く長くが、結構多かったのでビックリしました。
がしかし、答えは一つでは無い。
三つ目の答え 「太く長く」という道もあります。
太く長くというのは、伸びやかにおおらかに寿命を全うしなさい。そんな意味だったように思います。

実に、うなずくことの多いお話でした。

このあとは茶話会で、手入れの行き届いたお庭をながめながらお茶を頂きました。
ハナミズキが、ちょっと早めに咲き誇っています。

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目立たないけれど、カリンも花をつけていました。
ここのお庭は、前住職さんが、自分ですべてお世話をされているそうです。
「息子に木から落ちるな、気をつけろと言われてますわ。」と笑っておられました。

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帰路の橋の下には、シャガの花が群れとなって咲いていたのでした。

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2018/04/02

二つの美術館ーMIHO MUSEUM(ミホ ミュージアム) ・青山讃頌舎(アオヤマウタノイエ)

いつもの年なら、桜前線はどこまで来たのかと心躍らせる時期ですが、全国一斉に咲いてしまった感があります。
あっという間に散ってしまいそうです。
そこで、昨日は、桜と美を求めて(?) 二つの美術館をめぐってきました。

実を言うと、友達に誘われ、車にも乗せてもらって、ただボウッとして出かけた私でした。

忍者の里、甲賀にあるというミホ美術館。
「能や狂言で使う面の展示会をしてるのよ。どう?」
と言われて、また みほというかわいい名前に、こぢんまりした建物をイメージしていたのですが。

とんでもない、超巨大ミュージアムでビックリしたのでした。

MIHO MUSEUM(ミホ ミュージアム)

車を止めて降りたところが美術館かと思ったら、そこは、受付の建物でした。
この棟に、レストランと土産物売り場もあります。

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美術館はどこだ?
と思ったら、ここから、私の足なら、まだ10分ほどかかりそうということ。
シャトルバスが出ていると言うことでしたが、痛む膝を気にしてはいけない。
歩くことにしました。
しだれ桜の並木を歩くと、山を貫くトンネルがあります。
なんかすごい設計なので、「有名な人が作ったんだろうなあ~、ものすごいお金が掛かってそう!」と思いました。
設計者は、ルーブル美術館のピラミッドを設計したイオ・ミン・ペイ氏です。
この美術館の運営は、大きな宗教団体らしいですが、あまり宗教色はありませんでした。

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このトンネルを抜けると、光の世界に出るような気がするのです。

美術館の建物の入り口

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広大な建物で、常設館は南側で、北館に、今回の特設点が開催されていました。

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古典芸能、猿楽に使われた面を集めて展示してありました。
大和・近江および白山の周辺がメインとのことですが、九州や四の寺社の物もありました。
なかなか面白く、あっという間に1時間半が過ぎてしまい、その棟にあるカフェでランチにしました。

古代米と揚げた野菜を、オイルと柑橘系のドレッシングで味付けした一品とサンドイッチ。
すべて、種から作ってあるという無農薬の野菜だそうです。
優しい味の野菜・・・
根菜やフルーツのサンドイッチが混ざり、とても美味しく頂きました。
「サンドイッチで1200円は場所代だよね」と始めは思いました。
食べて納得。量も、ちょうど食べきれる量でありがたかったのです。
が、同行の友には、「ちょっと足りないわ。」とのこと。
一般的には、物足りない量のようです。

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帰り道は、こんな感じです。

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行きよりも、幾分花が開いた感じがするのでした。
桜を楽しみたい人は、今週中に言った方が良いでしょう。

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なんと、最新のしだれ桜情報まで、ここのHPには掲載されておりました。



次に向かったのは、伊賀市にある、青山讃頌舎です。
ミホミュージアムと比べると対照的な落ち着いた日本的な美術館です。
入り口横に茶室がしつらえてあり、予約したらお抹茶と菓子をいただけます。
春秋の2期、3ヶ月づつの土日だけオープンします。

青山讃頌舎(あおやまうたのいえ) 

2017年に亡くなられた穐月明画伯の意志を継いで、
今年から一般財団法人 東洋文化資料館青山讃頌舎として活動していくことになったそうです。

青山讃頌舎を、あおやまうたのいえと読みには、なかなか難しいですね。
デジタル大辞泉の解説の解説によると、
 讃 
 1, ほめたたえる。「讃歌・讃美/称讃・絶讃」
 2 ほめたたえる文。また、絵に添える詩文。「画讃」
 3 仏徳をたたえる言葉。「梵讃(ぼんさん)・和讃」

 発音は、ショウ、ジュのどちらかが用いられ、 
 じゅ【×頌】
  《〈梵〉gāthāの訳》梵語(ぼんご)やパーリ語の詩体の一。
  仏教では仏・菩薩(ぼさつ)の功徳(くどく)や思想などを述べた詩句をいい、
  漢訳されたものはふつう四言・五言の形をとる。偈(げ)。「頌を唱える」
  「頌偈」
 しょう【×頌】
 1 人の徳や物の美などをほめたたえること。また、ほめたたえた言葉や詩文。
 2 「詩経」の六義(りくぎ)の一。
   宗廟(そうびょう)で、祖先の徳をたたえる詩歌。
 3 キリスト教で、神をたたえる歌。頌栄。

まあ言うなれば、青山という地を、褒め称える詩の家という意味だと思います。

穐月明という画家は、生まれたときから仏教思想が値の中に流れていたような人だったのではないかと思います。
書と絵が一体となった作品も多く、そこに書かれている意味を、館長さんに読み解いて頂くも楽しいひとときでした。

館長さんは、画伯のご子息で、また、館長ご夫妻は、私の友人でもああります。
文化遺産とはいえ、それを保存し残していく大変さを、よくぞ引き受けたなあ~と、私は感心したのです。
「日本の文化を継承していくことには、価値があると思う。」と気負いなく言う、その自然体が、青山讃頌舎を揺るぎない物にしていくと思うのでした。
お茶室で交わされる、館長とお母上の哲学的、かつユーモアのある会話を楽しく聞かせて頂きました。

入り口
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茶室
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画像は2015年10月の物です。

桜が綺麗だったのに、写真を撮るのを忘れていました。