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2018/05/17

労学 対馬物語2日目

2日目:上対馬巡り

5月10日
一点の曇りも無い快晴となりました。

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この日は、対馬の北側の大きな島、上対馬を巡ります。
チャーターしたマイクロバスに乗って、宿泊地、厳原から出発です。

バスに乗り込むとすぐに、ガイドさんは手書きのスケッチブックを取り出しました。
手作りの資料を用意してくださる熱心なガイドさんで、この二日の旅は、すごく勉強になりました。

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上対馬と下対馬の間には、瀬戸と呼ばれる2本の運河があります。
1672年に開削された古い運河は「大船越」と呼ばれています。
今は漁港として使われ、舟の通行は、明治時代1900年に作られた万関の瀬戸が使われているとのことです。
船越という地名は、海を渡ってきた舟を、人力で持ち上げ山を越して渡した事からつけられたそうです。

万関は、日露戦争の前に、軍艦を通行させる所要時間を短縮するための作られた物です。

現在の万関橋
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橋からながめる運河
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舟が波を蹴立てて通り過ぎてゆきます。
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次は、和多都美神社です。
和多都美(ワタツミ) という呼び方は、海神(ワタツミ)を祭ることからつけられたのであろう思いました。
神社というのは、「場」なんだな~と感じました。
物はないけれど、古代からの霊気がそこにある感じがします。
ご神体です。
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次に、烏帽子岳展望台から、対馬の島々をながめました。
ガイドさんの話では、対馬は108の島があるそうです。
人が住んでいるのは4島で、あとは無人島とのことです。

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お昼は「あなご亭」で、黄金の蒸しあなごをいただきました。
対馬では、昔はあなごは食べずに捨てる魚だったそうです。
しかし、近年、気候の変動と乱獲で漁獲量が減少している。
そこで、見向きもされなかったあなごを大事に育成して、「対馬の黄金のあなご」にしたのが、この店のオーナーだそうです。
本当に、ふっくらとして美味なあなごでした。

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対馬野生生物保護センターで保護されているツシマヤマネコ君に会いに行きました。
お昼寝の時間だったようです。

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対馬では、年ごとに、ヤマネコの交通事故が増え心配されています。
ツシマヤマネコ交通事故ゼロ日数の標識をどこかで見かけました。
ツシマヤマネコの特徴は
額の縞模様。太いしっぽ、耳が丸い、身体の模様、胴長短足 などだそうです。
胴長短足・・・なんだか親近感を覚えます。

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対馬最北端までたどり着きました。
快晴のこの日、視力が高い人には、釜山の建物が見えたのかも知れません。
が、私は、あっちかなあ~と言いつつ、海の彼方をながめたのでした。

韓国展望台
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朝鮮国訳官使殉難之碑
元禄16年、1703年、旧暦2月5日朝、108名が乗った、釜山から対馬に向けた舟が、急変した天候のため、鰐浦を目前に遭難、全員が死亡するという悲惨な海難事故があった事を記す記念碑です。
秀吉の朝鮮出兵で悪化していた国交も、元禄時代には、回復していました。
訳官使とは、対馬藩主の慶弔や外交の実務交渉のため、朝鮮から対馬に派遣されていた使節のことだそうです。
この碑には、亡くなられた人たちのの名前が刻まれています。
水先案内として乗船していた、対馬藩士の名前もありました。

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 昔から、国境にあり、朝鮮への水先案内人として、有無を言うことも出来ず利用されてきた対馬の苦悩を、ガイドさんは、丁寧に話してくれました。

帰路は東の海辺沿いに下り、日本海を見下ろす「日露友好の丘」に連れて行ってもらいました。
この場所に、日露戦争で亡くなった軍人たちの名前を刻んだパネルがあります。
ロシア名が大半を占めていますが、日本人の名前も一緒に祭られています。

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1905年に戦われた日本とロシアの日本海海戦は対馬沖で戦われました。
私は、ロシアだから、北から軍船が来たのかと思いこんでおりました。
そうではなくて、バルチック艦隊はヨーロッパを経由して、西の方から対馬と壱岐の間を通って来たのだそうです。
長い航海で疲弊しきっていた上、思わぬ奇襲で、世界に誇るバルチック艦隊は敗れてしまったのです。

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(ネットから画像をお借りしました)

現在の爆撃なら、全員即死亡というような結果になってしまったでしょう。
この海戦では、軍艦は砲弾を受け沈没しても兵士達は救命ボートをこいで陸を目指したのです。
1900年当時、対馬の住民には、日露開戦さえ知らされていません。
丘の上で、鎌を持って農作業をしていた女達は、命からがらやってくる4隻の船に、始めはビックリ。
しかも下りてきたのは、初めて見るロシア人です。
手振り身振りで、話しかけ、「水が飲みたい」という事が分かったので、近くの井戸に案内したそうです。
その後、村の人たちで相談し、各家の大きさによって、人数を分けて、泊めて、にぎりめしやふかし芋など、自分たちで考えつく食事を提供したのでした。
地獄で仏という言葉がありますが、ロシア兵達は、まさにそう感じたのでは無いかと思います。
数日後、日本軍が、敗残兵の撤収にきて、彼らは日本の軍船で連れて行かれるとき、村人は、皆手を振って見送った。
そんな逸話をガイドさんから、聞かせて頂きました。

対馬の人は、昔から、困った人には手をさしのべる、良い性格なのですね。
だって、私のふるさとなんですもの・・・

記念碑の説明文です。
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帰りには、釜山から、また博多からの船がくる北の港 比田勝港の横を通りました。
ちょうど釜山へ向けての出航時間だったようです。
外国からの、特に韓国からのツーリストは激増して、施設を増設しても入館手続きに間に合わないとのお話でした。
30年前から、徐々に韓国からのツーリストが増えてきて、ホテルや土産物店を増やそうかという話が出たこともあった。
しかし、一時的なブームで、また下火になったら無駄なことになるし・・・
悩んでいるうちに増える一方で今を迎えているそうです。
4,5年前には無かった免税店やホテルが、空港近くだけでなく、厳原の街にも出現しました。
今や通りを歩く観光客の2/3は外国のお客さんです。
ガイドさんの話では、始めの頃は、文化の違い、習慣の違いで、様々な軋轢もありましたが、対馬も勉強しました。
そして来る方々も、文化の違いを理解してくれるようになりました。
商売のために媚びるのではなく、対等な目線で交流することを、対馬は目指しています。
ガイドさんの、ふるさとに対する愛と情熱に、私たちは打たれたのでした。

国境の島は、国境の国際交流の場でもあるのだと、しみじみ思ったのでした。
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