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2018/05/20

労学 対馬物語3日目 

3日目・下対馬巡り

3日目の11日は、対馬の南島になる下対馬を回ります。

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最南端の岬の地名は 豆酘崎(つつざき)と読みます。
上対馬の港、比田勝(ひたかつ)も、初めての人なら「はて、なんと読むのだろう?」と思うでしょうが、この豆酘は、まず読めないと思います。
対馬の地名には、独特の読み方が多いようです。
厳原(いずはら)、鶏知(けち)、五根緒(ごねお)、唐舟志(とうじゅうし)、鰐浦(わにうら)、唐洲(からす)、濃部(のぶ)、
阿連(あれ)、天道茂(てんどうしげ) etc

この島で元々呼ばれていた地名を、あとから内地(日本)の文字に置き換えたのでしょうね。
私が幼い頃、大人達は、対馬に対して、日本のことを「内地」と呼んでいたような記憶があります。
沖縄では、「本土」と言うに似た感じではないのだろうかと思うのです。

沖縄のような米軍基地はありませんが、昨日見学した、豊砲台跡(明治時代、日本軍が砲台を築き、広大な地下要塞となっていた)といい、海上保安庁、海上自衛隊、いろんな施設があって、この島は、日本の対外軍事拠点として位置づけされているのだなあと、私は感じました。

何はともあれ、この日も快晴でした。

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修復中の清水城を通り越し、空港へ向かう1870mの厳原トンネルを抜けて、鶏知(けち)から下対馬の西側に向かいます。
対馬西海岸の小茂田浜海岸公園。

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今では綺麗に整備されていますが、蒙古軍が、900艘の船と3万の軍勢が、ここにおしよせたのでした。
時代は文永11年10月5日(西暦1274年11月4日)でした。

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その頃、対馬の首都厳原は、府中と呼ばれていたそうです。
太宰府の役人で対馬守護代の宗助国は、その軍勢に対し、80騎で立ち向かったそうです。
そりゃまあ、負けて当然ですよね。

(クリックすると拡大します)
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朝の4時から戦いが始まり、9時には日本軍全滅で終了した。
総大将、宗助国は、その時68歳でした。
この場所の近くに、「お胴塚」「お首塚」とバラバラにあると言うことは、どんな討ち死にだったかと想像されます。
《 老将よく戦えり 》 偉いぞ、おっちゃん! と褒めてあげたくなります。
今の団塊世代にも、この根性で世の中に立ち向かってほしいものです。

私は、対馬藩主の姓が  というのはなぜなのだろと不思議に思っていたのです。
この宗助国さんの武勲を認められて、宗家は永く維持されたのかも知れません。

ガイドさんのお話によると、この元寇の戦いには、島の住民も巻き込まれ、殺されたり、奴隷として捕らわれたりしました。
多くの住民が、小さな小舟を操って島の外に逃げ出したそうです。
海流に乗って、一番遠くに運ばれた人がたどり着いたのが津軽、今の青森でした。

そこで、ふるさとに帰ることを飽きらめて定住した人々が、明治時代の、国民総姓制度で、名字を決めなさいと言うときに、ご先祖の地の名前を選ぼうと言うことなったそうです。
青森には、字は違いますが津島という姓がけっこうあるとのことです。

太宰 治の本名は津島 修治。 
実は対馬と太宰治は、奇しき縁があったのでした。

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次に行ったのが
椎根の石屋根倉庫です。
対馬の岩の質が、こんな板のような岩を生み出したようです。
季節風の強い対馬では、倉庫の屋根として大昔から使われていたそうです。
しかし、いまでは、保存が年々大変になってきています。
屋根は全部一枚ずつの石で出来ています。

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佐須院観音堂で、いにしえに海流に乗って対馬にたどり着いた木造の仏様を拝見しました。
平安期の作品と思われるとのことですが、どんな事情で来たのか、タイムトラベルをしてみたいと思いました。

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厳原に戻り、対馬藩主「宗家」歴代の墓所、万松院に向かいます。

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宗という名字は、中国からのいわれがあるのかなとも思われますが
wikipediaによれば、宗氏は秦氏の末裔惟宗氏の支族だとのことです。 宗氏

蒙古襲来で討ち死にした2代目 宗助国、20代目 宗義智 が有名です。
この宗義智は、秀吉からは朝鮮出兵の先駆けを命ぜられ、家康からは悪化した朝鮮との国交回復を命ぜられ、さんざん苦労したそうです。
奥さんは朝鮮出兵で共に行動した小西行長の娘でキリスト教徒のマリア。
関ヶ原の戦いで、西軍についた小西行長と東軍についた宗義智は袂を分かちました。
そして奥さんのマリアを離縁して島から逃がす。
なんと悲恋のドラマではありませんか!
対馬の市民劇団が、それをテーマにして 「島は島なりに治めよ」という舞台公演を各地でしているそうです。
ガイドさんが、まさにドラマ仕立てで語ってくれました。
ウィキペディアでは20代目となっていますが、お墓では19代としてありましたよ。

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杉の巨木、歴代のお墓、戦国時代を思わせます。

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この後、ランチで、対馬の郷土料理「ろくべえ」をいただきました。
ろくべえとは、サツマイモを水に漬けて発酵させて、澱粉にし、保存し、食べる際には、乾燥して団子状になったものをぬるま湯で戻して食られていた、いわば非常食だったそうです。
これで、飢饉の時にも対馬では餓死者を出すことが無かったとのことです。
今は、美味しい出汁で、プルプルした食感の郷土料理として味合うことが出来ます。

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午後は、対馬の最南端、 豆酘崎(つつざき)です。
快晴で、地平線が全部視界に入ってきます。

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灯台の手前にある、二つの塔は何かというと、この辺りは荒磯なので、船は、この間だけを通らなければならないのです。

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さあ本日は、これにておしまいです。
帰りのバスの中で、 豆酘は美人が多い、むかしこの集落に住んでいた娘が、その美しさ故に召し出されました。
彼女は、親元から引き離される悲しさに、途中で自害してしまったとのことです。
そして、死の間際に 「こんな目に遭うのも、私が美しすぎたせいだ、どうか、これからこの村に美人が生まれませんように」と念じて死んでいったそうです。
それでも、未だに 豆酘には、美人が多いとか・・・・

こうして三日目も楽しく過ごしたのでありました。

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